来週は選挙ですね、投票に行きましょう。
先週は鎌倉市の市長選挙があって、
借りている練習施設が投票所でもあった。
生徒のひとり(このエリアに住む成人の大学生)に
「選挙、済ませてきた?」と聞いたらば
「いえ。ここ投票所なんですね。知らなかった」
いや、驚いた。
大学生とはいえ選挙権は18歳からだから
この2~3年の間に投票の機会はあったろうに。
家族で話題にもならなかったのか・・・。
話反れますがお墓参り。
私は子どものころから年間、少なくとも3回。
お正月、春と秋のお彼岸に家族で行っていた。
お命日に行かないのかって?
故人がほぼお彼岸の前後に亡くなっているのね。
だからお彼岸で済ませられるのです。
つい先日友人と話をしていて
ご主人のおうちのお墓が誰も行かないから草ぼうぼうって。
つまり誰もお墓参りに行っていないという。
(それでも彼女は場所を知っているだけ良いかしら?)
選挙とお墓参りはその家にその習慣がないと
子どもたちに根付かないのではないかと思う。
お盆の迎え火送り火も。
先祖に対しても、神仏に対しても、死者に対しても
手を合わせるということひとつとってもそうだと思う。
日々の生活の中で普通のこと。
見るもの、聞くものはもちろん
挨拶ひとつ、箸の上げ下ろしひとつもそうだろう。
口やかましく、あぁしろ、こうしろと言わなくても
家の中でなんとなくやっていること
そういうことが自分を育んできたと思うと
家の中の環境はとても大事だ。
うちはどうだったろう・・・。
私がぼ~っとしながらも眺めていた家の中。
百科事典、美術全集、レコード。
母のお裁縫道具。庭の木。
もちろん普通に本もたくさんあったが
この部分は親の当てが外れた(私に対してね)
今でこそ読書はしますが当時の私はまったく読まず。
だが背表紙だけはず~っと眺めてるので
タイトルと作家はインプットされた。
これらのうちしょっちゅう見ていたのは美術本かな。
たぶん幼いころ絵が好きだったので
父が全集を買ってくれたのだと思う。
(それで思い出した! 今高級老人ホームにいる
父の従兄弟の奥さんがうちを称して
「このうちは文化を金で買う」
という名言をはいて父を黙らせた!)
図書館で本を借りて読むというのとは全く違うのだ。
日常のなかに何に囲まれて生活していたか。
兄の専門分野の遺伝と環境の話でしょうけど、
やっぱ環境よ、環境大事。
とはいえ、あんな親だったので
多くの部分欠落していた。
よって私はこんな程度にしか育たず
人生で出会った多くの方々から・・・。
今もですけれどお世話になりっぱなしです。
どんどん話反れていきますわ。
子どもは自然と学習していくのです。
親の行動は踏襲されます。
選挙には行きましょう。