まったくの私事だが、忘備録ブログなので書いて残しておく。
一生で出会う人々は多かれ少なかれ影響を与えてくれる。
いつもそう思って生きているが、
私くらいの年齢に達し自分の人生を振り返ってみたとき
『運命の人』だったなと思える人が数人いるなぁと思うことがる。
この人によって自分が方向づけられたという運命の人。
今年その運命の人3人との別れがあったと思わざるを得ない。
そのうち二人は死別である。ご高齢で他界なさった。
ひとりはギターの恩師である。
生前に既に良い別れ方でなかったから近年交流はなく
人づてに訃報を知った。
まだ確認はとっていないがこの方については触れない。
もう一人は…この方についてどこからどのように書いておこうか。
この方の訃報を聞いたのは数日前。
彼女とのことを思い出すとすっごく濃厚な接触だったが
期間としては私が19~20歳くらいの2年間くらいだったのではと
今現在自分自身でとても驚いているくらい短かったと思う。
年齢差は30歳くらいだから当時の彼女は50歳くらいだったのか。
彼女は鈴木メソッドのバイオリンの先生だった。
我が家の近所に彼女にバイオリンを習っている美少女姉妹がいて
ピアノ伴奏者として私の兄が紹介されて交流が始まった。
そして彼女が卒業したばかりの私の母校の弦学部のコーチで、
しかも娘二人(私の4歳と6歳下)をその学校に通わせていると。
つまり私の後輩ですね、娘二人は。
すでに弦学部の指導は辞めておられたと思うが
私は在校中に「弦学部に外から教えに来ている人がいる」
ということはなんとなく知っていた。
そんなことで私たち兄妹とそちらの一家との交流が始まった。
私はそちらの妹の方の家庭教師になぜかなっており、
それもあってとにかく週1回は伺って
勉強して、夕食をごちそうになり、
8時ころに家まで車で送ってもらっていた。
そのことは今思い返しても、
妹の方に家庭教師が必要だったわけでなく
たぶん悶々と生きづらそうにしている私を
解き放そうとしてくださっていたのではないか。
今はそんな風にしか思えないでいる。
何よりも感謝しているのは
中途半端な年齢で不安定な私を
対等な立場でずっと接してくれたことだった。
年齢的には自分の娘たちとさほど変わらないし
彼女が指導していた弦学部の生徒の名前をあげると
「○○さんと同学年なのね、おねさんは(私はそう呼ばれていた)」
と、当然私を子ども扱いをしても不自然ではなかったと思う。
実際私は彼女を「先生」と呼んでいたし、
少し年下ではあるけれど妹たちのような娘たちのお母さんは
私にとっては「お友だちのお母さん」的であったわけだ。
しかし先生は私と二人だけの時はご自身の経験を語ってくれて
その話の奥には私が父との関係でもがいているのを
ご自身もそういう時期を長く過ごしていたから、
語ることで私に寄り添ってくださっていたと思う。
私の就職も結局彼女のお世話になり
またそこで私は別の運命の人たちにも出会うことになった。
(その方々はご健在。そちらから訃報を伺ったというわけです)
2年、いやもうじき3年になるがその彼女に
30年ぶりくらいに私は会いに行った。
しっかりと抱きしめてくれて
「おねえさん、もう私90よぉ~、すっかりおばあさん」
いえいえ、若いころにたくさん山歩きされて
今も八ヶ岳に一人で暮らしていて
現在娘たちが暮らす鎌倉山をたまに訪れる生活。
この鎌倉の家も山の中でアップダウンはきつい。
足腰はしっかり、からだもまだまだがっちりされていた。
90歳の彼女を見て、つくづく足腰、お尻が大事と思った。
当時の話をし、感謝を伝えられて良かったと思う。
私を子ども扱いせず、大人として話をしてくださっていたこと
いつでも温かく迎えてご飯を食べさせてくださったこと
とても感謝しているとお話しした。
「お姉さんにそう思ってもらえてお母さま良かったねぇ」
とこちらも30年ぶりくらいにあった妹さん。
私が入り浸った当時、ジュンという犬がいて
長女がヴィタリのシャコンヌを弾くとそばに座り
彼にとってのサビの部分になると必ず歌った。
ちゃんとその部分まで聞いて待っていて
そこへ来ると歌うのであった。
「そうだったわねぇ~」
楽しい再会だった。
最後にもう一度抱きしめてくれた。
あちらの世界で、ダンディなおとうさまと
再び仲良くしておられることを祈ります。
(3人目の運命の人についても触れず)
補足
歌手のKANさんが亡くなったことも書いておきます。
ファンだったというわけではないが
新婚時代のKANさんの奥様と
ほんの少し交流があった時代があり
2~3回、KANさんが運転する車に
600メートルくらい乗せてもらったことがある。
昨晩『愛は勝つ』をテレビで聞いていて泣けてしまった。
別の星に行って、いや帰ってしまったKANさんです。