2年半前、コロナによる緊急事態宣言が出て
人々が毎日訳も分からず自粛生活をしていた時、
それはGWが始まろうとしていた4月末のある夜、
長年米国暮らしをしている中学・高校時代の友人の訃報が入った。
それまでも数人の同窓生の訃報があったが
その友人はかなり親しかった友であったので
あまりの突然の訃報に泣き崩れた。
訃報は友人からのfacebookのメッセンジャーから入ったもので
丁度入浴中だった夫は、風呂から出たら私が
ウォンウォン泣いていたのでさぞかし驚いたろう。
ひとしきり泣いた後、おそらく普通に寝床に着いた。
当時私は早朝5時前から40分くらいジョギングしていたのだが
翌朝もいつものように走りに行った。
(うん、大丈夫、一晩で立ち直った・・)と思いながら走っていた。
しかし突然、走りながら涙がとめどもなく流れてきた。
何かを、ましてや具体的に彼女を思っていたわけではなかったと思う。
それなのに突然涙があふれ出し止まらない。
そのこと事体に頭にきた。
とっさに私は心の中で彼女に叫んだ。
『いったいそっちから何が見えているんだっ!!』
すると
『何も見えていないよ。ただ感じるだけだよ』
何? 今のは。と走る足も止まってしまった。
聖パウロが突然、キリストの声を聞いたのと同じようだった。
彼女は今年8月ようやく日本に戻った。
偶然にも我が家と同じ霊園に墓地があり、納骨後に訪れた。
先日、夫が墓の掃除に行くというので
3か月ぶりに行ったのだけれど
巨大な霊園、似たような並び。
○○区○○番というメモは家にあり・・・
この列だったかなぁ~、違うなぁ
次の列かなと歩きながら、8月写真を撮ったことを思い出した。
彼女の家の墓石には『○○家』と彫られていないので
どんな墓石だったかを確認しようと立ち止まり
スマホを取り出してチェックする。
写真を見て(そうだった、この墓石)とスマホから目を離したら
目の前にその墓石があった。
立ち止まったのが彼女の墓の前なのに
スマホ操作をしてしまったのだった。
「やだぁ、バカだなぁと思ったでしょう」
私は彼女が応えてくれた先の言葉を信じている。
それまで多くの人がもっているかもしれない
『死者は我々を見守っている』という考え方を
おそらく私ももっていたと思う。
しかしあの日以来、そうではないと思うようになった。
そしてあの日以来、なるべく毎日彼女を思うことにしている。
あちらからは何も見えていないのだ。
だけれど誰かが彼女を思うと
それを彼女が感じるのである。
彼女はいつまでも私の中で生き続ける。